責任を負えないことに責任を感じるのは悪いことだってカケル君は言ってたよ!

コンビニの募金箱に「アフガニスタンの人達は、4人家族で200円あれば1日暮らしていける」と書かれているのを見ているにも関わらず、200円のおやつを買うことについて。

このときに、私が「募金できない」と言うのは端的に誤っている、ということである。ただ単に私は「募金しない」だけである。
仮に、その200円がないために、アフガニスタンの家族がその1日を生き延びられず、死んだとしよう。すると、事実として「間接的ではあろうが、私は人殺しである」と言えよう。

言えない。
「私のおやつの200円」と「アフガニスタンの死にそうなとある家族」を直接結びつけるのに無理がある、というのは、「uumin3の日記 - 道徳的詐術」で書かれている通り。なので、ここではもっと違う言い方を試みます。
このお話で無視されているのは「時間」だと思う。
ある一瞬だけを切り取れば、ほとんど誰にだって募金はできる。明日のメシを考えなければ。一瞬先の命を考えなければ。身体という資本があるので、ぜんぜん売り物にならない人のほうが珍しい。ということは、ある一瞬で見ると、ほとんど誰もが「募金できる」が「募金しない」のであり、「間接的な人殺し」である。……というのはなんかおかしいので、自分の生活に困っている人は「募金できない」ことにしよう、とすると、それはどこで線を引くのだろう? 今日の晩メシに困る人は募金できない、明日のメシに困る人は募金できない、じゃあ、一ヶ月後は? 一年後は? 十年後は? そんでもって、バナナはおやつに入るんですか? 線引きをするには価値判断が必要で、そうすると「事実として言える」という範囲におさまらない。
まあ、「私は間接的な人殺しだ」と言ったっていいんだ、いいんだけど、「間接的な人殺し」にならないためには、この世界からすべての貧困をなくし、不公正をなくし、虐殺をなくし虐待をなくし、愛と平和のユートピアをつくらなくちゃならないんだ。それはできません。なにをどうしたって。なにをどうしたって「間接的な人殺し」になるんだったら、べつになんにもやらなくたって同じ。……というか私はやっぱり「人間は生きること自体が罪だ」という世界観では生きていないな。それは嫌だ。
なんというか、「私は」で考える人と「私たちは」で考える人の違いがあるんじゃないかと思う。「間接的な人殺し」というのは「私たちは」の考え方なんだと思うけど、それを「私は」で語っているからへんなことになってる気がする。
ところでカケル君は正確にはこう言ったのである。

不注意だったきみがなのではない。責任を負えないことにまで責任を感じてしまうこと、いつも正義の側に身を置いていたいと自堕落に願ってしまう精神的な弱さこそがなんだ。どんなに苦く感じようとも、この真実をきみは飲み下さなければならない。

話はよくおぼえてないんだけど……たしか、ナディアのささいな不注意がきっかけとなって殺人が起こったことについて言った台詞。それはほんとうにささいなミスなので、彼女がそれをやらないようにすることはかんたんだったのだ。かんたんだったから、責任があるように思える。殺人を防げたように思える。そのミスをおかさないことは、「できること」なのだ。その一方で、彼女が殺人を防ぐことは「できないこと」なのである。いくらかんたんであろうと、それは「できないこと」なのだ。
そういえば、募金をすることも「精神的な弱さ」なのか、と、考えてた時期がある。自分は自分が楽になりたいだけなんじゃないか、これは偽善なのか、と。いまは考えてないなあ。募金するとき、あんまりものを考えない。これで助かるかもしれない誰かのことも、想像しない。