「愛はお金で買えない」のは、なぜですか?

ちょっと間があいたので、通常の20割増の分量でお送りします。が、佐藤大輔皇国の守護者』1〜9巻を一気に読んだので錯乱しております。錯乱て。新城直衛の思考と精神につきあっていれば気も狂うというものです。


なんだろう。なんだろうね。けど、タイトルじゃない枝葉にひっかかったりしたのでした。

競争が激化すれば、「金を稼ぐ能力」の低い人間は、その能力の欠如「だけ」が理由で、社会的下位に叩き落とされ、そこに釘付けにされる。
その状態がたいへん不幸であることは事実であるが、そこで「もっと金を」というソリューションを言い立てることは、「金の全能性」をさらにかさ上げし、結果的にはさらに競争を激化し、「金を稼ぐ能力」のわずかな入力差が社会的階層の乗り越えがたいギャップとして顕在化する・・・という悪循環には落ちこまないのだろうか。

この、「金を稼ぐ能力」って言い方がさ。一元的というか。
いったいどんな能力だそれは、と思ったのです。実際には、人と交渉する能力とか数字に強いとか手先が器用とか目がいいとか妄想力が豊かだとか、そういう個々の能力の複合技としてできる仕事が、需要と供給の兼ね合いで値がつけられる、のではないですか。直接、カネを操作する仕事も、あるにはあるんだろうけど、ごく一部だ(たぶん)。「金を稼ぐ能力」と総括しても、「人工知能」という用語のごとく内実がわからない。
なので、その能力の欠如だけが……とか、言われてもなあ、と。
正しいか間違っているかという以前に、私は気に入りません。
あと、気になったのは、「お金は汚い」と思っているのかな、ということ。

私自身は人間の社会的価値を考量するときに、その人の年収を基準にとる習慣がない。
どれくらい器量が大きいか、どれくらい胆力があるか、どれくらい気づかいが細やかか、どれくらい想像力が豊かか、どれくらい批評性があるか、どれくらい響きのよい声で話すか、どれくらい身体の動きがなめらかか・・・そういった無数の基準にもとづいて、私は人間を「格づけ」している。
私がご友誼をたまわっている知友の中には資産数億の人から年収数十万の人までいるが、私が彼らの人間的価値を評価するときに、年収を勘定に入れたことは一度もない。
私にとって重要なのは、私が彼らから「何を学ぶことができるか」だけだからである。

そんないろいろな基準で「格づけ」しているなら、年収も基準にしたっていいのでは、という気がしたのである。どれだけ稼げるかは、周囲の状況にもよるから、それだけで人間の価値がどうこうとはいえないけど、それでも「社会的」価値は、ある程度示すのでは。……まあ、業種も職種も違う人間の収入なんて見当もつきませんけど私は。
それに、どれだけ稼ぐかはともかく、それをどう使うかは、かなりのところその人を表すはずなので、金に関する一切を考慮しないのもおかしなことだ、と思う(「使う」ほうではとくに言及してないからほんとうのところどうなのかわからないけど、まあ、文脈から)。


格差社会云々についてはですね……、うーん、話が混乱するポイントがあって。

  • 心の糧の問題か、
  • 体の糧の問題か、

っていうのと、

  • 差が大きいのが問題だという、文字通りの「格差」問題と、
  • 下のほうの絶対値が低すぎる、っていう、格差というより「貧困」の問題、

が、あるのではないか、と。
希望格差社会」は主に「心―格差」の話。内田さんのはどこの話か判然としない。「心―貧困」になるのかな。内田さんの記事への批判で大きかったのは「体―貧困」だろう。
内田さんが自身の貧乏話を書いているからまた混乱するのだけれど。これに対して、「それぐらいは貧乏じゃない」「助けてくれる友達がいたから」「頭のよさっていう財産があったから」という反応がありました、が。たしかに、内田さんが生きてこれたのはそういう理由なんだろうけど、内田さんがその生活を「苦にしなかった」のはまた別の話、たいした貧乏じゃなかったからでも友達がいたからでも頭がよかったからでも、ましてや年収が人間の価値に関係がなかったからでもない、でしょう。まあ、年収が人間の価値と関係がないことを信じていたから、ではあるかもしれませんが、ひとことで言うとそれは、内田さんが図太かったからです。私はそう思います。図太いって……それ……うーん……(フォローしようとしてあきらめた)、どんな安心材料があろうと、信じない人は信じませんからね。信じやすい時代、信じやすい状況、というのはあれど、それでも「内田さんが」貧乏を苦にしなかったには「内田さんが」図太かったからなのだ、と……そうやって個人の問題としてとどめておこうとするのは、これまた私の趣味にすぎなかったりもしますが。――どんな時代でも、貧乏でもへいきな人はへいきだろう、って思っているということです。
ともあれ、(ほんとうの)貧乏を経験してみろ、というのは、話が錯綜する上に、無駄だと思う。同じ経験をしようと他人の気持ちなどわかるものではありません。
……貧乏多幸症かもしれないし。

 貧乏貴族の家庭で育ち、貧乏魔術師のもとで修行したマリアは、ほぼ底無しの貧乏に耐える用意がある。このていどのビンボウは彼女にとってはまだまだ序の口であった。

 台風がくるとついワクワクしてしまう小学生のように、「さあビンボウがくるぞ!」と思うと、いけないわと思いつつもなんとなく浮かれてしまうカラダは正直なマリア〈これでも〉十八歳。

 ハリケーン多幸症ならぬ貧乏多幸症。

 いま、まさにその真価が問われようとしていた。

↑このときマリアはタンポポの根っこを煎ってコーヒーの代用品をつくってました。


……うまくいえてないなあ。
福音はパンの代わりにはならない。
パンは福音の代わりにはならない。
体なくして心はないんだから、常にパンが優先になる……ようではある、けど、あえていうならば、体をなくしても心はあらねばならない、のだ。いくら体を大切にしても、ひとは必ず死ぬ。生きることがそれほど大切だというなら、なぜ必ず死ぬようにできているのだろう? 命より大切なものはないし、命ほど大切なものはある。パンと福音は、同じくらい必要だ、と。


あと、ねえ、格差社会について語ろうとするとどうにも据わりの悪い感じがあって、それは、自分の立ち位置がわからないからなのでした。金持ちではないが、金には困っていない……、前に『希望格差社会』の感想を書いたとき、つづきを書くかも、と書いたのは、そのへんについての話を考えていました、けっきょく書かなかった(書けなかった)のですが。
まあ、最近はそれほど気にならなくなりましたが。
けっきょく、他人事だしなあ、というか。うん、他人事他人事。生活に困っている人への同情心は、ない。自分の立ち位置がわからないってことは、「被害者」でも「加害者」でもないってことで、よいことだ。
……私はたぶん、「弱者」に対して、必要以上に?冷たい。そもそも「弱い」という言明を信用していないですよ。弱者は守らなければならない、という風潮がある現代では、先に「弱い」と言ったもん勝ち、てとこがあると思い込んでますから。というか、私自身が、弱いフリをします、たまに。だからひとのことも信用しない。まったくの偽りってことはめったにないと思うけど、どれくらい差し引けばいいのか、って考える。……ちょっと、ひどいな?(ちょっとかよ。)


「愛はお金で買えない」のはなぜですか?という質問をしたのは、こう、お金のことを考えてた延長でした。お金で買えるものと買えないものの違いは何か?――ひいては、お金とは何か?を考えるための準備で、お金で買えないといわれる代表格である「愛」をもってきた、という次第。なので質問のカテゴリは「ビジネス・経営」「経済・金融・保険」なのです。
でも、ふつうはこの質問、「愛」についての問題だと思われるようですね。
……。
そりゃそうか。
私でも、こう訊かれたら、まず「愛とは何か?」を考えるし、そもそもの「愛はお金で買えない」はほんとうか?を疑ってみせます。けど、この場合はただの前提でした。愛について考えてたわけじゃないのでいただいた回答に反問したりしてたんですけど、なんか、愛の足らない人だと思われたらしい、たぶんこの質問は、結婚や本当に好きな人ができたことのない人の質問だと思います。と言われてしまって、どうにも、苦笑い。いや、それはそれで当たっているのですけど、この質問での態度は、違います。けど、こういう反応をされたことは、自分について勝手なきめつけをされたってことで心情的にはおもしろかないんですけど、でも、おもしろいですね。いい性格ですね。「いい性格」ってなんで褒め言葉じゃないんだろう……。
まあ、お金が汚いっていう感覚や、お金でなんでも買えるという言説に対する反発は、じつに合理的な警戒心……なんだろう。
で、「愛」については「心を大きく傾けること」ぐらいにしか思ってなかった、その定義は憎しみやら妬みやらも含むってわかってはいましたが。


5番回答で

買えると思いますよ。高いですけど。
年収2000万円以上ならブサイクでもだいたい結婚出来ます。

で、……高いかなあ?というコメントをつけましたが。
私は他人といっしょに暮らすのがとっても嫌なので、さらに好きでもない相手と、となると、そんなん年間2000万程度では見合わない。けど、だったらいくらだったらいいのか、というと、2000万だって使うあてがないのに、それ以上なんてなおさら要らない……というダブルスタンダードによって、私にとっては成立しようがない取引なのですね。いくらお金を積まれても嫌なものは嫌、という例ではあるのですが……
「愛」という市場には相場がない。相場という用語が的確なのかわからないですが、だいたいいくらくらい、っていう感覚が、……いや、いくらくらいっていう感覚がそもそもだいたいの人にはないだろうけど、値をつけるにしても、だいぶ違うんじゃないかと。なので、売る側買う側で合意が得られにくい、という以前に、交渉がしにくい。が、交渉がしにくいとはいえ、売る側買う側双方が満足できる値がつけられればそれでいい……というわけにはいかないような気がするのだった。お金を使った取引って、二者間だけでは完結しないんじゃないか、って。他のモノとの価値の高さの違いがかんたんについてしまう。たとえいまは安くしといてもだいじょぶよ、って場合でも、のちのちのことを考えると安く見られちゃ困る、ってこともある。それは物々交換でも同じではあるんだけど、やっぱり、目安のかんたんさっていうのは、大きくその質を変化させる。


「売ってないから買えない」、という意見もありましたが。なぜ、売ってないか?
売れないから、って解釈も成り立つのでは、と思った。
売ることができない、じゃなくて、儲からないという意味で。
空気は売れない、という話がありましたが、それは、ありふれたものだからわざわざ買わないのですよね。宇宙空間や海底で供給源を独占すれば商売できます。「愛」が、売ることができたとしても、買う人ってどれくらいいるだろう? やっぱり、わざわざ買わないよな、たいていは。きっと。
お金で買うほどの価値はない。
っていうのは、まあ、喜ばしいことではあるんだろう、ありふれたものであるってことは。


「愛」は形がない、見えない、ので、確認ができない、という問題。
……さて、それって、いわゆる「真実の愛」であろうと、それを確認できない、ということなのですね。
SF設定でもファンタジー設定でもいいですが、えーと、「真実の心」を映す鏡があるとします。
あるとしても、それは、「心の表現」であって、「心」ではない、表現だから、嘘がつける。
……と、ひとは考える。
たとえ人類が進化してテレパシー能力を会得しても、ひとの心はわからない、のだ。
わからないのだと、ひとは考える。
わかりたいと望みながら、けっしてわからないのだと思う、そういう習性なんだと思う。自己と他人を区別するために。自己を保つために、必要な習性。
ことばも、プレゼントも、詩も、セックスも、愛の表現であって、愛ではない。ひとは、ひとに心を伝える術を持たない。ぜったいに。


仕事でお金を稼ぐのも表現だ、というのは、前に書きました。お金を払う側の表現ですね。
ROYGBさんのコメントで、

「募金」というのは愛をお金に換える行為なのかもなんてことも考えました。

とありましたが、うん、そうですね、愛の表現、だと思います。
投げ銭も、表現という意味合いが強い。払う側が金額を決めるモノは、表現の意味合いが強くなる傾向があるのだろう。
で、人力検索のポイント配分も、表現だ。と、配分するときに気づいた。回答の労力の報酬としては、安いですよね、とっても。ただ、このへんは、はてな内自給自足してる人と、ポイントを日本円で買っている人とは、金銭感覚ならぬポイント感覚が違うんだろうけど。私はポイント買ってます。ここ一年で2ポイントしか稼いでません……。自給自足より、ポイントを買っている人のほうが多いはず、と思ったけど(ユーザ同士でやりとりする他、はてなに手数料を払っているから)、そうとも限らないか。というか、ポイントを持っていない人、使わない人がいちばん多いかもしれない。
閑話休題投げ銭とは違って、質問の回答には相場があります。(回答数×10 + 50)/回答数……つまり、回答がひとつだけなら60ポイント、多数の回答がついた場合は10ポイント少々、これが基準です。これより多いか少ないかがひとつの目安。ただし、質問者の裁量でそれより多くのポイントを割り振ることもできるから、この標準より多いからってどうってことのない場合もある(実際、私の今回の質問では全員に標準より多く配分している)。となると、自分以外の回答にどれだけ配分されているかを知ることができる、のは、重要だ。そして、質問者がこれまで他の質問でどのように配分しているか、も。私の場合、今回のように大きく差をつけて配分することのほうが珍しい。基本的には均等配分です、正しい答えがある質問ではなく回答者自身のことを訊く質問が多いから。今回のは、まあ、好みでつけてます。
人力検索には人力検索の相場があるので、外界の金銭感覚で妥当と思われるポイントをつけると市場が混乱する……かも。換金できる(換金といってもいまは間接的に、だけど)にも関わらず、それなりに独立している。その状態は、ポイント配分状況が公開されていることによって維持される。


お金がなくなったら心がはなれていくのはほんとうの愛じゃない、という意見。
過去に遡って嘘だった、ってことにしなくてもいいのに、という気がする。心変わりした、ってことでいいじゃん。と。
まあ、お金に多寡以外の個性が観察できないからだろう。
同じく、ひとに属するものでも、顔だったら、事故に遭ってふためと見られない顔になったから愛がなくなった、といっても……あ、それもまたダメなのか。じゃあ、逆に、整形して美形になったから嫌になった、というのは? 脳を損傷すると性格が別人のように変わる場合があるらしいけど、そういうときは? 愛するKちゃんと大嫌いなSちゃんの体と心が入れ替わってしまった!さて、そばにいたいのはどっち? 愛する人が死んでしまった、その死体は何だろう? ボケてしまったら? 母が子を愛するのが自分の子どもだからだというなら、そのクローン体はどうだ?
残念ながらひとは魂を感知することができません。
なので、変わりゆくもの、を愛していることになるし、変わったから愛せなくなった、ということも、ある。はずだ。(DNAは変わらないか?)
お金は、ひとに属するものという感じが薄いので、それで心変わりっていうのはどうよ、って感覚はわかるけど。けど、その、属しているといえるのかどうかわからないもの、の多寡によって本人の振る舞いが、心意気が変わることは大いにあるので、かんたんじゃない。


見返り、について。
見返りを求めて愛するのではない、というのは、その通りなんだろうけど、愛する人に見返りを求めないか?といったら、そうでもないだろう。
愛されたい、とは、望むのではないか?
そして、愛されているかどうか、ひとの心はわからないんだから、「愛の表現」を求めるだろう。
……と、いうのは、おもにフィクションからの類推であり、私自身にはそういう気持ちがない。
愛の定義として、「心を大きく傾けること」としたのは、それでも、心が傾く感じは私にもわかるから。けれど、見返りを求めない――関わることを望まない、期待しない。それは、まともではない、とも思っている(思っていながら、「気にしていない」ことがさらにまともではない)。
愛は見返りを求めない、けれど、見返りを求めないのは愛じゃない、とも思う。
……まあ、あんまり無償の愛を説かれてしまったので、愛されるっていったいどんな特権階級だよ、って思ったってのもあるが。そこまで無償の愛を捧げる人は、傍からは馬鹿か狂人に見えるだろう。そして、馬鹿か狂人に見える人は、あんまりいない。


ところで、新城直衛はまったくひとに好かれない人ですね。「愛」と「好き」は違うということがよくわかります。愛されはすれど、好かれはしない。愛される以上に嫌われ憎まれ恨まれるけど。そして、敬されあがめられ頼りにされる。妬まれ舐められ恐れられ畏れられる。忙しいな。

その生涯を通じ、新城の内部ではどうしてここまで、と思われるほどの高度に純粋化された思考と、卑小、下劣にすぎるなにかが渦を巻き続けた。なにが真実かなど、本人にもわかりはしない。それで平然としていた。一片の疑問すら抱かせない真実などというものをかれは認めていなかった。

にゃ、にゃー。