約束が成立しない人たち

大石圭処刑列車 (角川文庫)』のネタバレをします。先月、アメリカの大学の銃乱射事件を聞いたときにふと、この作品のことを思い出して、↑のタイトルだけ考えてたのです。現実の事件のほうは、詳しいことは知りたくないのでほとんどニュースを見てないですが。
自分自身を含めて大切なものがひとつもなく、ただ他人を傷つけることだけに執着する人には勝てねえよなあ、ということ。
電車がのっとられて、乗客が次々に殺されていく、と。ただその電車に乗っていた、という、それだけのことで。理不尽な話なんだけど、私は理不尽だとは感じなかったのですよね。酷いとは思わなかった私が非道い。が、それは措いておく。
犯人たちは自らを「彼ら」と呼ぶ。正確には「彼ら」というのは自分たちのことではなく、「この世に生まれなかった者たち」で、自分たちはその代理人なのだと言う。生まれなかった者には生まれた者に復讐する権利があるのだと言う。まあ、わけわかんない理屈なんだけど、「権利」とはまあ、おかしなことを言うもんだ、と思ったのだった。
権利というのは約束だ、と、前に書きました。そういうものが、ある、ということにしておいたほうが都合がいいと考える人たちの間の約束だと。彼らは、その約束事の外にいる。逸脱している。それなのに、なんでわざわざそんなことを言うかなあ、と、不思議だ。権利なんか主張しなくても、現に、他人を蹂躙する力を持っているのに。行使しているのに。力を持つ者は、権利を主張しない。

「目的だって? ……あんた、まだわからないのか?」
 皺だらけの顔に笑みを浮かべ、今度は老人が言った。「電車を乗っ取り、乗客を殺すという、このこと自体が彼らの目的なんだ。ほかに目的などない。だから彼らに敗北はない。……ここでわしはもう4人を殺した。目障りな中年女が3人と、家族愛に燃えたジジイがひとりだ。だが、わしの命はひとつしかない。たとえ今すぐ殺されたとしても、4対1でわしの勝ちだ。お前らはどうやったって、1度しかわしを殺せないんだからな」
 老人はそう言うと、おかしくてたまらないというように、喉を痙攣させて笑った。

それなのに、話をするのですよね。理解される必要などないのに。そして、取引じみたこともする。乗客から赤ん坊を人質にとって水を運べと命じ、何往復もさせてから解放したりしている。自分の命とひきかえに孫を解放してくれ、という約束も、きっちり守っている。逆に、韓国大使の命とひきかえに在日朝鮮人を解放するという約束は、大使を無事に帰すという形で約束を破っているが。
それでも、彼らとの間で約束など成立しない。乗客に運ばせた水は、そのまま床に流してしまっているのだ。水なんか要らないのだ。だから、取引じみたこと、と言った。彼らはいつでも約束を破れるし、そして破ったことに対するペナルティを受けることもない。――自由には責任が伴う、とよく言うけれど、それは少し違う。自由に振舞った結果として社会に損害を与えたならば、責任を追及する準備があるぜ、という社会である、ということだ。彼らは何も持たず、何も欲しがらない。だから取引などできないし、ましてや罰を与えることもできない。
なのに、あえて話をする姿勢は見せる、約束を尊重する態度を見せる、というのは、社会の、約束事で成り立つシステムそのものを愚弄しているように思えるのだ。「なぜ、人を殺すのはいけないんだ?」などと訊いてきたりするのだ、なんていやな質問……! ……まあ、実際のところは作者が「権利」というものが「ある」もんだと思っているのではないかと思うけど。私はひとが使う「権利」に違和感を持つことが多いので、私のほうがおかしいのだろう(おかしいというのは間違っているというのではなくて、特殊という意味で)。
さて、最後には、彼らは外部とのやりとりをすべて停止する。そして、乗客のうち5分の3が死んだら残りの乗客を解放する、という。乗客同士で殺し合わせようとするかのように。電車には強力な爆弾が仕掛けられていて、誰かが近づけば爆発させるという。犯人は乗客の中にも紛れ込んでいる。――乗客を救う方法は?
これで乗客を殺人者にさせよう、というのは、あざとい……のかどうか、まあ、自分の命がかかってるからねえ、ってところなんだけど、それ以前のところで、彼らの悪意は伝染していたりする。彼らのものよりもずっとゆるい悪意ではあるけれど。警察に殺到するいたずら電話や、恋人を見捨てて生還した男の家にかかる罵倒の電話。乗客の中からも保身ではなく仲間になりたいと申し出る者が出る(そして殺される)。外でも、人を殺し、仲間にしてくれと電車に向かう者が出る(そして殺される)。犯人が乗客に紛れ込んでいるというのも、それで乗客を監視しているというよりも――誰もが殺人者なのだ、とでも言いたいようだ。

 そしてテレビの前に座った者の一部は、妊婦が殺されることを願った。妊婦が胎児もろとも無残に射殺され、鉄橋から10数m下の川に転落することを願った。それはほんの一部の者に過ぎなかったが、たとえその割合が国民の1%に満たなかったとしても、その数は少なくはなかった。

「今、テレビの前に座っているやつらにとって、これはどんな映画より、どんなドラマより、どんなスポーツ中継より、ずっと楽しいはずだ。そうだろう、お前ら?」