安全な本

29日の続き。
世の中にはいろんなことがあって、それらをいちいち、調べて、考えて、意見を持つなんてことは、できない……という状況で、世論調査をしたところで、意義があるのか?という疑問。
世間の多数は、そう思ってるんだから……というお墨付きを反対派に示そうとしているのかもしれないけど、多数がそう思っている、ってことは、正しさの根拠になんてならない。
とくに、この場合は、たんに不快だから、じゃないのかなあ、と疑っている。


で、別の話ですけど(上のは、私が疑っている、というだけの話なので)。
不快だから、というのは、禁止する法律をつくる根拠になるのか?という疑問。たとえば世間の99パーセントの人が不快に感じるような行為があったとして、それでもそれを禁止するのはどうか?と思ったんだけど。
けど、すでに、公衆わいせつとかいう法律が、あるんでは……と思って、調べてみる……
正確には公然わいせつというらしいですね。

法的概念としてのわいせつとは、判例によれば、「いたずらに性欲を興奮又は刺激させ、かつ普通人の正常な性的羞恥心を害し、善良な性的道義観念に反する」と定義される。

普通人正常善良ときたよ。
いや、うん……あんまりつっこまないでおこう……私はふつうじゃないんでわからない……。けど、必要な法律なのかなあ、とは思うよ。

乙女心に法律などありません!!

あ、違った。


物語のなかの性描写、暴力表現は、現実の犯罪を増やしているのか? それとも抑制しているのか?
欲望を喚起するのと、代償として鎮めるのと。
収支はプラスかマイナスか。
抑制効果がある、と、規制されたくない側としては言いたいけれど、それはそれでちょっと癪だなあ、という気もするんですよ。
現実になんの影響も及ぼさない物語なんて!
…………まてまて。
でも、実際、架空の物語よりも、「現実の事件の報道」のほうが、はるかに、影響力があるんじゃないかな……。
けど、虚構とのつきあい方も学ばせようとせずに、暴力表現の多い物語を子どもに与え続けたら、危ないよなあ、けど、虚構とのつきあい方、とは?(……あとで考える……)

「本というのは、そもそも、危険なものなんです。社会から見れば、危険な思想を語ったり、自殺の方法について、詳しく書いたり、現実を忘れるほどに幻想にのめり込んだりする、……そういうものが、たくさん、あります。だから、昔の権力者は、禁書を定めたりした。今はPTAが、悪書追放を行っています。……しかしですね、もし、安全な本だけが読まれていたら、世の中は平和になりますか? そうではないでしょう。僕たちは、危険な物に触れている、そう自覚しつつ、本を読むのが、いいんです。それに――安全な本というのは、概ね、つまらない」