壜の中の水、水の入った壜


げーじゅつの秋、

というわけで、絵を描いています。
夏も描いてたけど。とりあえず秋なのでひとり写生大会をやりたくなったけど、パソコンとペンタブレットを持って外でお絵描きするのはあやしいな、……という以前にめんどくさいのでやりません。
前に、デッサン派(輪郭派)と色彩派……という話をしたんですけど……輪郭を描いてからそこに色を流しこんでいくのか、タッチでかたちづくっていくのか、で、絵の描き方というだけでなく、世界の認識のし方が違うのだ、と。色彩派に興味をひかれつつ、ついつい輪郭を描いてしまう……のでしたが、芸風を広げるぜ、と思って、色彩派の方法を模索してみた。
あんまりレイヤーを分けず、不透明度の低いペンで塗る、というやり方をやってます。



この二枚は写真を横に見ながら描いた。もちろん人物は別ですが。というか、女の子はけっきょく、デッサン派の思考でやっちゃってますね、それほど輪郭は描いてないとはいえ……。
で、冒頭の壜の絵は、実物を見ながら描いたもの。これでようやく、「自然の中に輪郭線はない」ということばの意味が、ちょっとだけ、わかったような……。うん、たしかに、ないな……というか、見たままに描こうとすると、輪郭線は描けないな、と。
あと、写真を手本にして描きながら気づいたこともあって。
これまた、前に、写真は見たままに写らない、っていう話をしたときに……絵が、思ったように描けないのは、納得はいくって書いたのですけど、これは、納得しちゃいけないことだった、というのに気づいた。いや、してもいいんだけど(どっちだ)。思ったように、というか……絵は、写真と違って、見たままを、あるいは、見たことがあるものを描くものとは限らないけれど、でも、見たままを描こうとした場合に見たままを描けないのは、見たままを描こうとしてないからなのだ、と気づいたのです。
……ああ、ことばが不自由(不自由なのはことばじゃなくて私のあたまだ)。
あのですね、写真を見てそれをそのまま描こうとした場合、そこになにが写っているのかわからないとき、描きにくいのです。それがなんなのか、わからないと、描けない。なんなのかわからないなにか、を、そのまま描くのにためらいがあるのです。
机の上に水の入った壜があるのを見て、それを描こうとすると、「机の上に水の入った壜が置いてある」絵を描いてしまうんです。
……そりゃそうだ、
っていうのじゃなくて。
いや、やっぱりことばが不自由なんだよ、ことばで説明してしまったら、そこで認識が済んだことになってしまうから。
うーん、と、「誰の眼にも机の上に水が入った壜が置いてあるのがわかるように描いてしまう」のです。
それは「見たまま」ではない。
影、というものを考えてみてもいい。「影の当たっていないもともとの色」を想像し、その上に影をつけようとしてしまう。影、込みの色を、そのまま受け入れられない。影がない色を、「ほんとうの色」だと思ってしまう。……影の認識って、学習の結果だと思うんだけど、幼児は影をどう認識しているんだろう?
……という感じで……デッサン派と、色彩派、……色彩派の認識のし方を会得したわけではないけれど、「違う」ということだけは理解した。たぶん。……おそらく、ほんとうに「見たまま」に描こうとつとめていくと、ゲシュタルト崩壊するんですよ。