自分チャンネル

寄藤文平絵と言葉の一研究 「わかりやすい」デザインを考える』を読みまして、たいへんおもしろかったです。
で、この本の本題ではない(?)んだけれど、「自分チャンネル」という遊びが紹介されていて。

 まず、自分を見ている自分2号をつくる。その2号から自分を見る。ソファーに座って、惚けたような自分の姿が見える。次に、その2人を見ている3号をつくる。惚けた1号を、あんまり面白くない顔で見ている2号を見ている3号。さらにそれを見ている4号を見ている5号……。

多くなってくると部屋に入りきらなくなるので、天井とか屋外に浮遊させる。で、それぞれの視点を切り替えて見てみる、というむずかしい遊び。
……むずかしいのである。
なぜか自分2号すらつくれないのである。「自分を見ている自分」というだけならわかるんだけど、そういうときって、こんな感じ。

背後ちょい上空、やや視界は広いけど基本、見ているものは同じ。そして、「自分の顔は見えない」。
自分の表情というものを、「知らない」のである。表情以前に顔立ちもあんまり知らないかもしれない。
私にとって、「自分を見る」というのは外見を見ることではないのだろう。身体と精神は不可分だと思っているのに、わけて考えてしまう。自分の見た目が好きじゃないのか……うー、好きとはいわないけどきらいではない、しかし劣等感はある、みたいな。つっこみたくない話題。
それはさておき。
ふつう、自分の状況を自分の外観から知ることはない。なにをしているか、なにを考えているか。そういうのは鏡に映して知ることじゃないので、見る必要がない。
そして、どうも、客観視するというのは、視野を広くすることだと思っているようだ。視点は変わらない。変えられない、のか。ものの見方なら変えられる。自分の見方は変えられない。……なぜか。なぜだ?
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