昨日の日記


げいじゅつの秋なので、また金沢21世紀美術館に行ったのですよ。↑の画像はもちろん加工してあります。ちょうど、このへんの空だけに雨雲がかかってておもしろかったんですけど、うまく撮れなかったんで、どうせなら絵画調にしてやれ、と。むずかしいな。
で、せっかく行ったのに、まずタレルの部屋(天井が四角に切り取られた部屋)で居眠った。なにやってんだ。起きたら晴れてた。


コレクション展「shift―揺らぎの場」の、アン・ウィルソン「逸脱の行動」がこわかったのです。不安感をかきたてられるというか。糸、針、レース、髪などの素材を少しずつ動かしながら一コマ一コマ丹念に撮影したものをアニメーション化し、作曲家ショーン・デッカーが音を付けたヴィデオ・サウンドインスタレーションだそうで、パンフレットを読む限り、べつに必ずしもこわいものを狙ったものではなさそうなんですが。コミカルとも不穏とも感じられる。うーん。
この、糸やら針やらを、なんの疑いもなく「生き物」だと認識していることが原因だとは思う。ん、だ、けど……、「生き物」だと思ってるのに生き物らしくない動きをしているからなのか、それともそのぎこちなさを「死にそう」だと感じてしまうからなのか、そんな動きをしているにも関わらずなんの疑いもなく「生き物」だと思ってしまう自分の認識に自分で軋みを感じてしまうからなのか、この不安感の正体がよくわからない。よくわからないから不安なのか……。音楽のせいもあるか。不協和音ではないとは思うけど、不協和音に感じられる。音質?
人間は点がみっつあれば顔だと思う、というのはよく言われることだけど、動いてれば生き物か? むー。自律して動いている(ように見える)、というのがポイントだと思うんだけど、自律してるかどうかって、どこで判断するんだろう。自動車は生き物には見えないけど、それは自動車に関する知識があるからでは、って気もする。自動車も、それに似た機械もまったく知らない人が見たら、あれも生き物かもしれない。それこそヘッドライトが目みたいだし。
でも、この作品だって、これがアニメだって知識が、ある、はず、なんだけど……? あー、フィクションだって前提があるからか。そのつもりで見るから、「現実」として受け止める閾値が下がってる……の、か。でもそうしたらどこまでいっても括弧つきの「現実」でしかないと思うんだけど。自分で何言ってんだかわかんなくなってきた。


村山留里子の作品もこわかったです。タイトルが「無題」なんで識別できなくて困る……ビーズや造花を山盛りにしたオブジェ3点のほうです。「奇麗の塊」シリーズというのですか……。たしかに、きれいなものを集めているんですけど……なんでこれがこわいのかわからない、って言われそうなんだけど……なんだろう、過剰でこわい。容赦ない感じがする。