昨日と今日の夢

眠りが浅くなってるなー、ちゃんと眠らないと昼間に眠いよなー、と思っている、夢。
……それは起きていたんでは? 夢ではないのでは?
しかしまあ、夢だと自覚している夢かもしれないじゃないですか……。けっこう長いこと「眠れないー眠れないー」と思っていたような気がするんだけれど、夢だとしたら夢の時間はのびのびに感じるものなので、実際にはけっこうきちんと眠れているかもしれないじゃないですか……。
……今日は眠かった。昨日は眠くなかった。
…………どーなんだー。


映画「君の名は。」で私がおもしろい(興味深いという意味で)と思ったのは、それがたんに、男の子と女の子の心と身体がいれかわる、というだけでなく、「夢の中で」いれかわる、ということなのだった。夢なもんだから、ただでさえ大胆になる傾向があるというのに、さらに他人の身体、性別まで違うとなれば、かなり行動がはっちゃけてしまうわけだ。起きているときとは、観察される性格が違うように見える。で、起きているときの正常な相手の行動は、じぶんが夢の中にいるわけだから正常に認識できない、正常に認識できるはずのじぶんが起きているときには、なにしろ夢の中のことだからあまりおぼえていない、だから思い返して正常な意味づけをすることができない、のだ。(予告編のなかで、「わたしたちは会えばぜったいにわかる」って言ってて、そりゃ顔を知ってるんだからわかるだろーよ、って思ってたんだけど、夢のことだから「おぼえていない」ってことらしい。)観客からすると双方の動きがわかるので、わかりにくいんだけど、彼らそれぞれの視点からすると、このコミュニケーションはかなりがったがたなんである。自分の身体ではっちゃけるから怒って文句つけてるのに、相手は夢の中なもんだから、ぜんぜん堪えてくれない、怒りが伝わらないのだ。その、相手に、恋! と、なると、かなーり、びみょうな、気分に……。
で、びみょうな気分になったところで、さらにびみょうな気分になる仮説を思いついていて、だな。
ネタバレかな。
いまさらか。
なぜふたりがいれかわったのか、なんですよ。
というか、三葉――女の子の祖母、母の母も、ほとんどおぼえていないけれど昔だれかといれかわったような気がする、っていうのです。巫女の家系(?)なんです。なので、なぜ三葉といれかわったのが瀧なのか、という話。三葉の母は故人で、それをきっかけに父とは没交渉で同居してないんだけれど、その父親が、瀧といれかわった三葉を、娘じゃない、と気づくシーンがあって、三葉の母もいれかわりの経験があって、その相手は父だったのではないか、おぼえてなくてもその素養があったから、中身がなんか違うなんてことに気づいたのではないか、と思ったのです。
つまり――結ばれる相手といれかわるのではないか、運命なのではないか。
夢の中、というふわっふわしたリアリティが、死と時間の流れ(断絶)というどうにもならないものに切り裂かれた――ようにみえて、けっきょくふわっふわしたところに回収された、ように思えて、それで、びみょうな、気分に、なったんだよなー……(「運命(笑)」と書きたいところを自重した、というあたりにそのびみょうさ加減を察してください(自重してない))。
いや、ほんとのところは知らないけど。
なんでいまさらこんなん書いてるのかしら。けっこう公開直後に観てるのに(いやまあ、観る人はもう観ただろうし、観ない人はもう観ないだろうな、と)。
そういえば、吊り橋効果って実際にやった実験である、って、最近はじめて知りました。