事実と思われることとその解釈

職場でテレビを聞いていると、いじめとか自殺とか親殺しとか妹殺しとかバラバラ殺人とかのニュースが耳に入るわけですけど、語られている内容よりも、語っている人の姿のほうが存在感が強くて、あー、そーゆー物語をつくろうとしてるんだな、と、醒めてしまうのであった。とくに、バラバラ殺人というと、京極夏彦の『魍魎の匣 (講談社ノベルス)』における中禅寺の説教を真っ先に思い出すので、冷酷さとか残虐性とか異常性を即、意味するわけではない、と、判断を保留する、と、世間話のネタとしてふられても「はずみで殺しちゃったとしても、なんでそこでバラバラにしますかねどっかおかしいっすよねえ」とか常識的な反応ができなくて困る、いやぜんぜん困らないけど。けど、私が気に入らないのは、語ることによって真実を伝えていないであろうことでも、語り手が真実を語っていないことに無自覚であるように見えることでもなく、その物語がつまらないことなのであった。ちょうつまんない。逆にいうと、話がつまらないからその内容自体を云々する前に語り手に対してつっこんじゃうんだな。マスコミは話をおもしろくするためにセンセーショナルに伝える、などとも言われるけど、大袈裟に騒ぎ立てたり「事実は小説より奇なり」というような珍しい「事実」を見つけることがそのまんま物語をおもしろくするわけではないのだろう。つまんないならつっこむなよとつっこまれそうですが「私がそれをつまらないと感じること」について考えるのはおもしろいのでいいんです! おもしろけりゃそれでいーのかこら、ともつっこまれそうですけど、……えーっと……いけないの? ……何かいけないことがある可能性があるのか、と、しばらく考えて、「○○だったらそれでいいのか」という類型はたいてい「他の誰かを傷つけても」というのが省略されているのか、と気づいた。ああ……うーむ……、わかんない、また考える。
で、殺人とかについては、それこそ虚構の物語を必要以上に摂取しているので物語の枠組みがわかりやすいのですが、政治とか経済とかはわからん。とくに経済は、個人が見えにくいからなあ。