「いま」だけで生きる、「いま」だけを生きる

私は自由だ、という実感がある。未来は茫漠としていて、これからどうするか、どうすべきかなんてわからない。だから何をやったっていいしどこへ行ってもいい。なんでもできるしどこへでも行ける。でもいまはどうしたいかがないし、だから希望はない。立ち止まっていて不安がない。いつか、ということを信じているけれど、いつか、がなくたっていまはいい、いまがあるから。
まー実感なんてちょうあてにならないんですけどね。↑
人間は未来を考えるようにできていて、未来をよくするためにいまの行動を考えて、未来に得られるだろう報酬を現在の糧にすることができる。未来のために多少の不自由や不遇や不満を我慢することができる。反面、未来がわからなかったり望みが叶わないことが予想されたりすることが、不安だ。いま不自由なく暮らしているのに三十年後の生活を思い煩ったりする。
過去から未来へ途切れなく続く時間のなか、自分という固有の存在もまた連続している。過去の自分も未来の自分も、同じ「自分」。思い出で生きるし、夢で生きるし、希望で生きる。
――と、いう観察が正しいなら、私はどこかの機能が壊れているんだろう、とは思う。因果律に則った思考から逃れられるわけでもないけど(逃れたいわけでもないけど、想像したいだけで)。そこまでは逸脱してないけど。自分がいつか必ず死ぬ、ということを理解できないのも、そのへんの機能障害なのかな。べつに私は困らないんだけど、周りの人のほうが困るかも。
なので、不思議だなあ、と。「人生楽ありゃ苦もあるさ〜」って、それ、わからない。というか世の人はほんとうにそう思ってるんでしょうか。ほんとうに、というか、辛いときに唱える建て前だったり、大きな幸運に浮かれることをたしなめる忠告だったりするんだろう、とは、思うけど。ううむ、わからないんだ、それが。わからないって言われたほうもわからないだろうが。