たびにっき・そのいち

いつもの散歩コース(の、ひとつ)を久しぶりに歩いてて、ああ、また、知らないうちに秋が深まってるなあ、と、思ってたら、雨粒がぽつりと。しょうがない、傘をとりに帰るか……と、引き返してたら、やんでしまった。散歩コースに戻るか、帰るか、迷って、戻ることにしたんだけど、さっき降られた地点まで行ったら、また降ってきてしまって、帰ろうとしたらやんで、行こうとしたら降ってきて……永遠に繰り返して、出られない。
……と、いう、妄想を。
していたら、けっきょく雨には降られました……



宮城県美術館で、「トリノ・エジプト展」を見てきました。イタリアにあるトリノ・エジプト博物館から出張(って言い方はどうなんだ)で、日本各地を巡回してるようです(→トリノエジプト展オフィシャルサイト)。
私は、そもそも美術館に行くつもりもなく、てきとうに歩いてたら着いちゃっただけなので、まあ、興味もなかった、のですが。
「死んだ後に永遠に生きる」というオシリス信仰が、どうにもわからなくて、考えるハメに(?)。で、昨日、唐草模様についてぐぐったら、オシリスの名前が出てきて、うわあっ、ってなった次第。
いや、↑の、「死んだ後に永遠に生きる」という私の要約が、おかしいのか。「Wikipedia:エジプト第1中間期」では、人は死ねば誰もがオシリス神となり、復活して来世を迎えるってあるんだけれど、これもまた、展示で見てきたのとはだいぶニュアンスが違う。「来世」ってことばは使ってなかったと思う……。来世っていうと、生まれ変わる、みたいに受け取っちゃうけど、復活して、そのまま死者の国(その名前は忘れた)で生きる、というような(だからミイラが要る)。で、その死者の国っていうのは、ほとんど当時のエジプトそのまんまなのだとか。
何がひっかかったのかというと、それ、ほんとうに信じてたの? ってこと。死の恐怖を回避するために、死んだ後も生きられます、っていうのは、なんか、先延ばしにしてるだけのように思えたのです。復活した後は死なないんだから心配しないでね、ってことなんだろうけど、その、永遠は、こわい。と、思うんだけどなあ。
でも、ほんとうに信じてたのか? と、問うならば、たぶん、ほんとうに信じてたんだろうなあ。その死者の国というのは、よい国らしいので、みんな、行きたかったんだろう。……と、いうのではなく。
みんなが行くのに、自分だけが行かないわけにはいかない。自分だけが取り残される恐怖のほうが、永遠――の、先にあるものがわからない、なんていう漠然とした恐怖より、よっぽど切迫したものだろう。
だから、信じるほか、道はない。

 宗教とは人々に大きく双手を拡げて迎えいれるポーズをとる一方で、意に染まぬ者を徹底的に殺す。

 宗教の本質は、排除だ。

――と、いうのは、もちろん、私の想像なのですが。
けど、沈んではまた昇る太陽や、氾濫しては引いてゆく川の流れに、永遠を感じた、というのだから、彼らにとっての「永遠」って、不変なるものじゃなくて、循環するもの、であるようだ。冒頭の私の妄想も、唐草模様も、循環系。
だったら、「死後の生」っていうのも、繰り返すんじゃないかなあ、と思った。死後の生で、また死んで、再生して、死んで……、いまの生も、前の生の死後。……って、それじゃあ、輪廻転生です。
うーん。
王子さまとお姫さまは結婚していつまでもしあわせに暮らしました、っていうものがたりの結末は、いつまでも生きているわけがないんだから嘘だってわかるんだけれど、それでも嘘じゃなくて、子どもが生まれて、そのしあわせな暮らしを引き継いでいくんだ、って、それが「いつまでも」ってことだと、なんとなーく、受け止めますよ、ね……、循環系の永遠の生、っていうのは、すごく当たり前に、ある。……それが永遠に見えるのは、他人事だからか。他人と、他人の子どもをおんなじよーなもんだと思うことができても、自分の子どもが自分でないことは、知ってしまっていることだから。
だから、生に関しては、循環系永遠じゃダメで、不変系永遠なのか、な。


なんか書いてるうちにますますわかんなくなってきちゃったじゃないか。つづく!(どこが旅日記なんだ。)