たびにっき・そのよん

まだつづいてます、「トリノ・エジプト展」の話。

で、エジプトといえばミイラですよ。
子どものと、男性のとがあったのですが、あんまりまじまじとは見ていません。
そのときは意識してなかったのですが、最近、G・K・チェスタトンブラウン神父の不信 (創元推理文庫)』を再読していたからかもしれません。「金の十字架の呪い」という話が……
えーと、ネタバレします。
ミイラです、と紹介されたのがじつは新鮮な死体だった、という……(もちろん紹介した人が犯人)。
まあ、そうですね。ミイラって死体ですね。
でも人はたいてい、新鮮な死体は見たがらないよな。ミイラだと思ったら新しいものでした、が、ぞっとするのはなんでだろう。どっちにしろ死体だろうに。
即身仏だと、まじまじと見られるのは本人も承知でしょうが、エジプトのミイラは、うん、本人、そんなつもりないです。即身仏は結果だけど、エジプトのミイラはまだ旅の途中なのです。飾られて感心されてる場合じゃないんじゃないかなあ。
なにやってんですか。と、ミイラにつっこみ。

わたしどもにはわからないことが出てくる超自然の物語を信じるほうが、わたしどもの知っているところと矛盾するような自然の話を信じるよりも、実のところ自然なのです。


ミイラはもちろんだけど、その他の、棺にしたって像にしたって枕にしたって、当時の人々はまさか、何千年後の人々にまじまじと見られるだなんて思ってなかっただろう。
……現代のものは、数千年後に、どんなものが残ってて、未来の人々に並べられることになるんだろう。数千年後まで人類はいるかな。
で、その並べられたものは、その未来には、実用的な意味を失くしたものなのだ。博物館というのは、珍奇なものを並べる場だから。
同じように、私が見た、古代エジプトの、美しい像に見えるものにしても、実用的な意味は私にはない。でも、もとは実用品だったはずだと思う。飾りじゃない。まあ、いまでいう芸術だとか美術だとかいうジャンルが、当時はなかったし。なので、いま、芸術品に見えるのは目の錯覚なのです。猫の像、可愛かったけど、あの猫はただの猫じゃないのだ……。


昨日の耳のやつは洒落じゃないか、とか、復活して永遠に生きるなんてほんとうに信じていたのか、とか、そういう疑問が出てくるのは、私の感覚とのズレからなんだけれど、同じ時代を生きている人であっても、ネタかマジかわかんないことはよくあるし、それなのに後世の人に判別つくもんかなあ、とも思うのです。
代表的なのが占いで、世の人々があれをどんだけ本気で信じているのか、本気でわからない……。でも、新聞でも雑誌でもテレビでもつきものみたいだし、未来の人が見たら、21世紀の日本人はこれをいつも指針にして行動していたのだなあ、と思ってもおかしくない。
か? どうなんだ。つきもの、って書いたけど、私がふつうに生活してる分には、まったく見ないんですけど……。でも、信じてる人もいれば、迎合してるだけの人もいるんじゃないかなあ、と思う、ん、だけど……もしかして全員が迎合してるだけだったりして……その場合は誰に迎合しているというのだ……。振る舞いから内情がすべてわかるわけではない。
だから、古代エジプト人も、そんなに一枚岩かなあ、とか。思っちゃうのです。信じない、だなんて余裕は、豊かさがなければならないのかもしれないけど、うーん、でも、古代エジプト人だって、人間、だしなあ。人間って、いろんな人がいるもんじゃないですか……。