水差し

西澤保彦の、『瞬間移動死体 (講談社ノベルス)』だったと思うけど、「なまけものはなまけるための努力だけは怠ってはならない」というような台詞があったんですけど、そういうことですね!(←はげしく違う。)(いやー、でも、自分の居心地のいい場所を確保すべし、ってことなら、同じではないかな、かな。)
前に、選択の自由と満足感について書きましたが、これも共通する話だな、と思った。なんというか、けっきょく、信じることができるかどうか、なのだ。そのために努力せよ、というような話になりがちなんだけど、でも、自信と努力というのは、あまり関係がない。努力をすれば自信がつくわけではない。能力が上がれば自信がもてるようになるわけではない。才能がありあまってれば自信がもてるというわけでもない。どういうことか、というと、信じる、ということには根拠がないからだ。信じるに足る根拠なんてないのだ。それが信じるに足る根拠だと、どうやって「信じる」のだろう? 「信じる」根拠をたどっていって、最後にあるのが「神様」だと思う。――あなたの「神様」は強いですか?
私は、自分の存在には価値があると思っていて、そのことに理由も根拠もないと思ってて、まあ、あえていえば私が価値があるといえばあるのだ!ということであり、それでぜんぜんへいきだ。誰に認めてもらわなくても否定されても、自分で信じていれば。――客観的にはアホな人なんだけど。
でも、満足感とか充足感とか――しあわせとかには、客観っていうのはむちゃくちゃ無力なんだよなあ。そもそも自分を客観的に評価するというのが不可能なんだけど、客観的に評価できたとしても、自分のこころには響かない。自分はこれだけの仕事をして、これだけのものを得て、これだけのものを築いたのだから、しあわせになれるはずだ、しあわせになるべきだ、とか、評価したところで、むしろ逃げそうだよ青い鳥。がんばった見返りとしてもらえるものではないのだ、自信も、しあわせも。等価交換じゃない。自分にとって価値あるものを捧げれば対価として「しあわせ」を与えてくれるなんていう、分配の神様は、いない。私は、信じない。
いやー、努力するな、がんばるな、ということではないですよ? 私は「自分が努力すること」はきらいだが人ががんばってる姿は好きなので、がんばりたい人はがんばってくれたまえ(えらそう)。ただ、何を選んでも選ばなくても、保証がないことにはかわりないので、結果だけに期待するのではなく、過程を楽しんだほうがいいかもね、とは思う。そもそも、人生には「結果」などないというではないですか(そうだっけ?)。他人の人生はともかく、「自分の人生」だけは「物語」にできない、ともいいますよ(私が)。
……親切じゃないな、私! 水ぶっ差してるよ!