ママがそう教えてくれたから。

神はいる、と論理的に説明できるかた、お願いします。という質問で、質問者さんが

現在、世界に拡大している主要な宗教が設定している「人間の行いに判決をくだす意志をもった存在」としての神を、なぜ多くの人が信じるのか。ここをもうすこし掘り下げたいです。

と書いてらっしゃるのですが、でもその「なぜ」はかんたんじゃん、ていう答えがタイトル。ママじゃないかもしれないけど、とにかく幼少時の環境がものをいうよなあ、という感じ。信仰をもつすべての人が、ってわけではないだろうけど、でもほとんどは。信仰というのは、たぶん、自分では選べない。
日本人の大半は特定の宗教をもたないですけど、だからって神様を信じてないってことにはならないと思う。

「てんけーてきな日本人?」
無宗教といいますか  …いや 難しいですね 説明するのは
 彼らの多くは神の存在を信じないわけではないのですが名前などどうでもいいのです」

私はあんまりてんけーてきな日本人ではないので、特定の宗教はもたないけれども、神様はよく使う。わかんないことがあると、それは神様だ、という感覚があって、神様こき使ってます。べんりです。
で、過去ログをあさってたら、神の存在証明を引用してた

「神様は在りますか」
「それもよい指摘です。在りますよ。在るから皆さん、在る、無いと大騒ぎです」
「それは、在るということの証拠ですか」
「無い物に名前は付きません」

……証明……?
とゆーか神様は論理の外側の存在なんじゃないかな。
それに、「あたまでわかる」のと「こころでわかる」のは別だと思う。ので、証明したって信じられるかなあ、と思ったけど、証明できた!とか、ひとが証明したのを理解できた!って瞬間に感動しちゃえば、その勢いで信じられるかもしれない。「こころに響く」っていうのが重要。けど、はじめから感動しようという色気で追究するのじゃ、あとで信じられなくなるかも(←呪い)。

「信仰と云うのは――」
「信じることです。解ることではない。彼等は信じていたのです」

彼らは「正しい」から信じたのではなくて、「ユーモアがある」から信じたのかもしれない。(中略)だからたとえば、レヴィ=ストロースナマケモノ創世神話を語って聞かせた人物に、太陽のまわりを丸い地球が回っている宇宙像を教えても、彼は「わかった。しかし、その話のどこで笑えばいいんだ」と答えたかもしれない。


ところで、私は、悪いことをしたら罰をくだすというような、意志ある神様の存在は信じていない。信じてないっていうか、きらいですね。信用したくない、という感じ。
でも、何が悪か、っていう軸を、自分の中に立てるには、どうしても神様が必要な気がする。親が、隣人が、国が怒るからダメなのだ、とかいうのじゃ、虚ろに揺れてしまう。自分で基準を育てること。意志ある神様が昼寝中でも、自分は自分のしていることを見ているのだから、自分で恥ずかしくなることはしないこと。内なる神を信じること。
……といっても、はじめに書いたように、それも周囲に大きく影響されてるのですが。


この前、『路上観察学入門 (ちくま文庫)』を読みまして、路上観察学がなんなのかっていうのはわからなかったんだけれど、その中の座談会で林丈二さんという人について、あの人は神様だいや神の子だ宇宙人だ、ってみんなで話してるところがあって、そこが異様におもしろかった。「やっぱり神というのはいるんですよね。」って。生き神はうさんくさいものですけど、ちょっとうらやましくなるくらい。


それにしたってママは神様だ。

神様ママ「いや、あなたは捨てた。わたしにはわかる」
わたし 「ど、どうしてわかるの……?」
神様ママ「それは……」
わたし 「……?」
神様ママ「わたしは神様だからなんでもわかるのです」

 信じました。