袋の中と外

部屋がいっこうに片付きません。
……まだ片付いてなかったのか、とか思われそう……。
変化が少しずつなので目が慣れてしまうだけで、当初よりはずっとマシになってるはずなんですが。写真撮ってなかった(撮りたくなかった)から比較できません。でも、前は畳や床で昼寝しようったって、場所がなかったので。
とりあえず流しの古紙回収車をとっつかまえたい……。
最近ようやくわかってきたんだけど、私、「モノをしまうこと」が「あんまり好きじゃない」みたいなのです。まあ、めんどくさがりなんで、そもそもがやろうとしたって苦手なんですけど、それを抜かしても、とくに見えないようにしまうとなると、そのまま忘れてしまう……という思い込みがあって(というかほぼ事実だけど(押入れをあさるとおぼえのないものがぽろぽろと(このオルゴールはいったいなに、とか)))、出しっぱなしにしたがる。そして埃をかぶっていくのであった。しょうもないな! 埃をかぶるにしろ、しまって忘れるにしろ、いらない、ってことじゃん、それは。ということで(自分を説得して)、捨ててます。
とっておくものを選んでそれ以外を捨てるのと、要らないものを選んで捨てるのとは、違うわけで。

だいじなものと、いらないものとだけに、こうやってすっぱりわかれているんじゃなく、

どっちの袋にも入ってないものがたくさん、あるのです。
この散らかったものは、たいていいらないものの袋に入れることになるんですけど、全部を袋に入れなくちゃいけないってわけでもないと思うんだ。というか、なんか、それは危うい気がする。全部を割り切ってしまいたいけど、割り切りすぎるのもどーなんだろう、とも思う。なんだろう、これ……。


入江紀子『のら』を読み返してたんですけど、彼女ほどモノ持たぬ暮らしは真似できないなー、と思いつつ、ちょっと、うらやましいような気もする……。まあ、真似もなにも、生業は「居候のプロ」ですから、自分のモノなんてほとんどない。家もない、名前もない、年齢もわからない。
その何もなさがうらやましいのは、私が――たいていの人はそうじゃないかと思うけど――何かを持つということに、自分が何者であるか、を、託している部分があるからだと思う。だから、何も持たずに、それこそ名前すら持たずに「自分」であり続けることができる彼女が軽やかに強く見える。

あたしはあたしです 生きてる今だけの

何があっても どこででも 死ぬまで生きてくだけだから

けど、彼女はふだん、出会った人に、名前はない、家もないって言うけど、ほんとうは、あったけれども失ったのです。名前を呼んでくれる人を失って、帰る家を失って、名前を忘れてしまった。だけど、言わない。生まれたときからずっとそうしてきたみたいに言うし、ふるまう。だからこそ、いまの彼女は彼女自身の選択なんだとわかる。そう生まれついたからそういう人間になったのではなく、彼女が自分で選んできたことなんだって。自分で身につけた強さなんだって思う。
で、まあ、うらやましい、ってのはそういうことだろーなー、とは思うけど、私は彼女じゃないので、同じ選択を目指さなくてもいいのだ……。