「捨てない派」の言い訳

職場の机周辺の混乱はあいかわらず惨憺たるありさまで、とうとう改善勧告が出されたのですけど、昔は「A型でしょ!」と言われてたのにいつのまに「B型だろう」って言われるようになったんだかなあとか遠い目をしていたり。でもあれは、まじめで几帳面ぽく見られるから自分でも勘違いしてたというか、期待に応えようとしていた、ような気がしないでもない。整理整頓が苦手なのは昔からだし。でもきらいでもなかった、かなあ、一種の支配欲かもしれない、自分の持ち物を完璧に管理下におきたい、という。「完璧」というのがポイントで、物が増えて完璧にできないようになると「もういいや」になっちゃうわけです。「それなりに」というラインがない。
というようなことを昨日考えてたら、はてなブックマークで「私の情報整理術: 捨てる派の情報整理術」があがってました。
……えー、捨てない派というか捨てられない派というか。とりあえずここでは仕事のことは措いときます。そして実体のあるもの、本について語ります。電子情報についても書こうかと思ったのですが、語るほどのことがなかった……そもそもモノを集めないので(でもかなり自分の記憶力頼りなので早々に破綻しそうだ)。


前に引っ越したときにいくらか処分してて、その後も一年くらいは「捨てる派」に移行しようとしてたのですが、けっきょく戻りました。戻したというより、戻っちゃった、というような……。
「捨てる派」に移行しようとした、というのは、やはりコストを考えてのことです。場所をとること、分類整理がめんどうなこと。第一、再読するような本は限られていること。もしそれ以外の本を再読したくなったら、また買うなり図書館を利用するなりしたほうが、自分の部屋を捜索するより早くて安いのではないか、と。
合理的な判断だと思う。いまでも、そう思います。
前より再読することは多くなったけれど限られていることには違いないし、絶版・品切や図書館へ入りやすいかなど難しいところはあれど、探すことのコストは下がっているし、今後も下がっていくことが予想される。
だから、それでも「捨てない」というのは、コスト以外の価値軸が入っているわけです。
持っていると、安心する。これです。
……。
持っていること自体が、気持ちいい、のです。

捨てる派の人間の行動パターンには、保有メリットより保有コスト の方が高ければ捨てる、という合理的な面だけでなく、捨てるのが好きだから捨てる、という趣味的な面も多分にあります。冒頭の捨てる派の言い分でいえば「第一、ものが少ない方が気分がすっきりする」です。

そうそう、「捨てない派」にとってはその趣味的な面が逆になるのです。
ただ、それが本の場合には――…

「本を所有するというのは、数ある快感のうちでも、もっとも心地よいものだからだよ。書物に淫するというのかな。本を所有するということで、なんとなく本質を所有した気になれるのさ」

これ前にも引用したな。
でも、私にも身軽になりたいという欲求はあるし、「捨てられない」からこそ「捨てる」ことが気持ちいい、というのもあるのです。

「ああ、気持ちよかったよ。世界でいちばん気持ちのいいことは、淫していたものに唾を吐きかけること。私にとっては本を棄てること。愛していた本を棄て去ること。つまり、知識を棄て去ること」

けっして唾を吐きかけるつもりはないんだけど……! でも、「捨てる派」に移行しかけた、というのは捨てるのが気持ちよかった、というのもあったのでした。けど、しばらく経つと、こう、むずむずするものが、居心地の悪いものが、やってきたので――「捨てない派」に戻ったのでした。
自分が利口になったような気分になれてしまう、という錯覚が本の所有欲をかきたてるのは事実としても、現に「持っていることが気持ちいい」人間が捨てるようにしたところで、今度は「本を捨てられる自分かっこいい」という別種の自分酔いに変わるだけだろうし、そんなんだったら素直にしてたほうがよろしかろう、
……という判断をすることを私は自分に許している。
また数年したら考えが変わることが予想されるのですが。まったく管理できてないし。本棚がひとつしかないのでほとんどがダンボールか、畳に直に積んであるのです。で、ちょっと学習したのです、下手に整理しようとするとよけいにわからなくなる、ということを。読んだ順に積んでいけば、これはいつごろに読んだからあのへんにあるだろう、と地層で見当がつくのですけど、半分くらいシリーズ別にしてみたら、……わ、わからなくなった……。
あと、物をためこめるのはやっぱり同居人がいないからこそ、でしょう。いたら、怒られると思います。