強い現実と醒めない夢

なんで夢か現実かを確かめるのに頬をつねったりして痛いかどうかで判断するのか? というようなことを考えていました。なぜ痛いほうが現実なのか。
そりゃ、痛いっていう感覚は無視できないからだ。どんな喜びがあっても、すっごく痛いってところがあると、キャンセルされる。で、そういう強さを持つほうが「現実」なのである。現実だから痛いのではなく、痛いから現実なのだ。現実が強いのではなく、強いのが現実なのだ。そういう定義。
……という風に、ようやく納得した。
とはいえ、夢、というものに関しての考え方は、時代や場所によって変わっているだろうから、頬をつねる、というのも一種の文化なんだろうとは思う。というかそもそも、そんな仕草、フィクションのなかでしか出てこないんじゃないのか。


フィクションといえば。夢の世界に閉じ込められる、ていうの、よくありますよね。いい夢、幸福な夢。都合のいい夢、思い通りになる夢。で、そんなのは違うってんで抜け出す、というお約束。
けど、どうして思い通りになってはいけないんだろう? 何が違うっていうんだろう? ふつうの夢はかんたんに醒めてしまうわけで、だからがっかりしたくないっていう防衛のためにあんまりいい夢は拒否する、というのは、わかる。けど、お話のなかでの夢は、自分で醒めようとしなければ醒めない夢で、本人もそういう夢なんだって知ってて、それでも拒否する、ということになってる、たいていは。なんでなんだろう。
……私だったらどうだろう? ……つまんないかも、なあ。だって私、創造力ないんだもんよ。


野梨原花南の『ちょー薔薇色の人生 (コバルト文庫)』にも、そういう夢で登場人物のほとんどが試される、というシーンがあります。現実が過酷になる前、漠然とこういう未来がくると思ってた、夢。だけど、宝珠の夢だけが違った。いや、漠然とこうなるだろうと思っていた未来、というのは同じだけれど、それは幸福な夢ではなかった。誰かに幸福を願われなかった、という育ちのせいで、彼女は自分が幸せになっていい、とか、幸せになれる、とか、信じてないところがあった。現実のほうが素晴らしくて、夢のほうが味気なくて、だからこそ夢から醒めるのは彼女には難しい。そういう子を見るのは、はがゆい。ひねくれたところのない素直な子なのに、自分を大切にしてくれないのは。

 いつまでも幸せに過ごしましたとさ。
 涙が出そうだ。
 ありっこないのに。そんなこと。
 でも、それでもそれは素敵だと宝珠は思った。

宝珠は「新世界より」から「薔薇色の人生」までの主人公。