『シン・ゴジラ』観てきた

ゴジラ観たの、はじめてでしたよ……。はじめてなのに、ゴジラの鳴き声(?)に、「なんだか懐かしい」と感じてしまうのはなぜ。
そして酔った(たまに映画館で酔う人)。
ようやく気づいてきたんですけど、強大な存在に人間がつくったものがばんばか破壊される実写映画が、苦手らしいよ!

心臓と胃にわるい。
たとえ人間が殺されていなくても。今作も、死体どころか怪我人の描写すらほとんどないけど、それでもダメだった。アニメならたぶん平気。
さらに、地名とか、人物の名前・肩書きがテロップでいちいちでるのがきつかった。名前があると、そこに個別に存在するものである感が強くなるので。
人名については、それで誰をおぼえておけばいいの!って感じでもありましたが。エンディングでは、キャストはほとんど五十音順で、特別扱いになってるの、四人ぐらい?


政府にしても、市井の個々人についても、その対応、選択について、どうしても「終わった後」の視点で見てしまうところがあって。フィクションだと展開が読める(少なくとも、かなり破滅的なことになることはわかっている)ので、現在進行形のことについても、「終わった後」のような、結果が分かった後のような、「危機感が足りない!」って気になってしまう。
このへん、先日、ダンカン・ワッツ『偶然の科学』を読んでからもやもやしてるんですけど、いやまあ、もやもやしてるのは、本の内容をたぶん理解してない感じがするからでもあって、たぶん、この本、ちゃんと理解できたら世界が拓ける感じがする類の本じゃないかと思ってるんだけども……。

 これは重要な特徴である。歴史の説明は、起こったことを公平かつ客観的に述べている「だけ」だとよく言われるからだ。しかし、バーリンとダントがともに論じるとおり、起こったことをありのままに述べるのは不可能である。これはおそらくもっと大切なのだが、起こったことをありのままに述べても、歴史の説明が目的とするのは過去の出来事を再現するというより、なぜそれが重要なのかを明らかにすることなのだから、その目的にもかなわない。そして何が重要で、なぜ重要なのかを知るには、結果として何が起こったかをたしかめるしかない。当然ながら、恐ろしく有能な理想的年代記作者も、この情報は持っていない。したがって、進行中の歴史は語りえないのであって、その理由は当事者たちがあまりに忙しかったりあまりに混乱していたりして歴史を解き明かせないからだけでなく、起こっていることは結果が明らかになるまで意味づけができないからでもある。

しかし、「現在進行中の人々」であっても、「終わった後」でこれが歴史になるということを意識しているんだよな、と思った。なんかそういうセリフあった。「結果が明らかになるまで意味づけができない」にも関わらず、意味づけしようとする。「結果が明らかになって意味づけをする行為」そのものも、歴史となるのだから、それはそういうものなのかもしれない。