おはようからおやすみまで










記事タイトルだけを見てチューリングテストの話かと思ったクチです。で、ああ、違ったか……とわかったあとも、「テキストに知性がある」っていうのは、「テキストを書いた存在に知性がある」っていう意味なのかー、ってのが、なんか、違和感あるようなないような……。
というか、違和感あるのは、最初に思い浮かべたのがチューリングテストだった、っていうのが原因か。チューリングテストでは、「人間には知性がある」っていうのは前提なのである、……たぶん。いや、まあ、正確には、あれは知性の有無を判定するのではないのかも。
どちらにしろ……相手がコンピュータなのか人間なのか、というのでも、人間なのだとして賢いのかバカなのか、というのでも、「知性があるかないか」を判定したいのだとしたら、それはなぜか。と、いえば、たぶん、相手に期待したいからなんだと思う。もっといえば、具体的に直接にコンタクトしたいとき。そうじゃなきゃ、書いた人が実際頭いいのかどうかなんて、どうでもいいんじゃないかなあ、と、思う。どういう意図で書いてあろうと、書いてあることがすべて、というテキスト原理主義からすれば。重要なのは自分がそれを読んで新しい知見が得られるかどうか、……あー、ってことを考えると、直接交流しようっていうんでも、おんなじか、べつに、相手がどんなひとなのかなんて、どうでもいいのか……なんでも自分次第なのか……それも、なんかなあ。違うだろ……。