第2回金沢・世界工芸トリエンナーレ


見に行った。
ヤカンがかっこよかった。
鹿の角と骨でつくった草花もかっこよかった。ガラスケースに展示されると、反射したりして、見にくくなるものですが、ガラスに映った光景も含めて調和してて、写真撮りたかったー(撮影禁止です)。
あとは、銀細工の車とか、ペンダントライトとか。
てづくり(!)のバイクとか。

「工芸」と聞くと、あたまに「伝統」を無意識につけて解釈してしまうのですが、そういうもんでもないらしい。
アメリカ(サンタフェ)、オーストラリア、台湾、日本からの出展ですが、その、どこにしても、伝統の技法を使っていたとしても、断絶がある。外部からコミュニティが崩壊させられた、というケースもあるにしろ、そればっかりじゃなくて。
つくり手が、伝統の技法を学ぶこと、あるいは、復活させることを、「選択」している、という点で。
昔は、本人が選択するようなことじゃなかったじゃないかと。
前に書いたことだけれど、伝統というのは、価値があるから続く、残る、というのではなく、「価値あるもの」を伝承していく、そのこと自体に価値があるのだと思う。過去から伝わり、未来につなげる、ここにある自分というもの。個人の死を乗り越えるための手段。だから、そのシステムが重要なのであって、内容はどうでもいい……とはいわないけど、システムほどは重要ではない。
……うーむ。
でも、そんな風に考えると、自分で選択してしまったら、その効果は薄れる、と思う。自分で選ぶ、というのは、自分で価値を決める、ということだけど、「伝統」の価値は自分で決めるものじゃないからだ。
でも、現代社会――民主主義社会にしろ、資本主義社会にしろ――は、自分で価値を決め、自分で選択することを要求する。私自身、そんなもんだと思っているし、そう努めてもいる、か?(いやそれはあやしい)
でも、世の中には、「選択の余地がない」ことが重要になることもあるのだ、きっと。

ところで、世界各地から集められても、日本産のものにいちばん反応しやすいのは、なんなのか。やっぱ趣味が合いやすい?