フィクション

大砲が英雄たちの脇役でしかなく、科学捜査が名探偵の従僕でしかない世界の物語、いいかえれば神話的原型に「現在」の一部が接ぎ木され、ある部分だけが「合理化」されたような歪みをはらんだ物語を受け取り続けることで、私たちの意識はどのようになってゆくのか、ふと気になった。推理小説を含めて、物語は絶えずリニューアルされたりその時代の価値観に合わせて合理化されたりするだろうが、そこで必然的に、新しい衣装ともとの地肌との間に隙間が生じる。隙間ある物語を享受する私たちとは何なのか。
巽昌章『論理の蜘蛛の巣の中で』(ISBN:9784062135214

でも、なぜこの決して自分の本心を明かさない登場人物、嘘しか言わない登場人物がきわめて高潔な印象で最後、僕たちの心に残ることになるのか。それは、嘘を言うことでしか言えない「ほんとう」というものが、あるからだとしか、言いようがありません。
 しかし、このことに関連して、もう一つ言っておきたいことがあります。それは、フィクションというものがないと、この「ほんとう」を笑い飛ばすものがなくなってしまう、ということです。「ほんとう」のことは、大事だし、それをめがけてしかヒトは生きられないが、しかし、その「ほんとう」のことは、笑い飛ばされる必要があるのです。そうでないと、「ほんとう」のことは、何ものもこれを否定できない僭主のような存在になってしまうでしょう。それは、「ほんとう」のこと自身の望まないことではないでしょうか。その僭主化をふせぐもの、そこに風穴をあけるものが、僕の考えではフィクションなのです。
加藤典洋『言語表現法講義』(ISBN:9784000260039

 私たちの生きている世界は、人食いや狼男、ヒドラや魔法使いのいる童話の世界と大して違いはありません。童話の世界を息づかせているのと同じ悪のフィクションが、私たちの現実の世界のなかにも浸透しているのです。
カレル・チャペックカレル・チャペックの童話の作り方』(ISBN:9784791761678